クジラックスと「僕ら」の挟間で

漫画家のクジラックスさんが、約二年ぶりに、コミックLOという雑誌の、紙面に戻って来た。
それに対して、まあ、クジラックスさんについて。好き勝手に。

 

クジラックスの漫画は、ある種でセンセーショナルである。そして僕ら世代的であるとして語られる。
しかしクジラックスの他にも過激な作品を書く作家は多い、
そのいくつかも、大々的に「僕ら」として語られることはなかったように思う。
クジラックスの漫画とそれら、なにが違うのか。
確かに漫画に現れる主人公は肥大化した自意識や自尊心を抱え閉鎖的なものが目立つ、
昨今の、現実の事件を彷彿とさせたり、社会的である面も見受けられる。
女の子も、理不尽に事件に巻き込まれたり、自分の無知や愚かさで、男の手にかかる。
確かに彼の描く漫画は僕らが生きている現代の孕んでいる病理に確かに近い。
テレビの中で語られるニュース。それが萌えというフィルターを通して、漫画に落とし込まれている。
その僕らの共通して持っている閉鎖的で乾いた、理不尽な時代感が、その「僕ら」というものに繋がっている。
今までのそういう過激な作品は、どうしてもエロ作品なので女の子のエロティシズムに焦点が当てられ、
この主人公や社会状況での、どうしようもないコンプレックスの肥大と、抑圧による解放というものに焦点は当りづらかった様に思う。彼の漫画の重きは主人公の境遇やそうなる理由づけに置かれている。
そういう意味で、彼の漫画は同時代的な「僕らの漫画」として語られるのであろう。
かと言って、少女を描くことを怠っているわけでもなく。
そのバランスの良さも「僕ら」に支持される一因にもなっている。

 

ここで一つの疑問が出てくる。
はたして、クジラックスの描くそのような犯罪者的と言っていい主人公に感情移入し「僕らの漫画」と言ってよいのだろうか。
なぜなら、「僕ら」である美少女オタクの免罪符は、
「犯罪を犯す奴は間違いで、僕らは清く正しく、節度を守って生きている。オタクだからといって十把一絡げに語るな」
であった様に思う。それが、この手の話しを声高に「僕らの漫画だ」ということは、
こぞって使っていた最後の砦を自ら、否定することにはならないだろうか。
オタクは良くそういう矛盾を犯す事があり、これは最たるものではないだろうかと思う。
僕らの漫画、というからには、クジラックスの漫画が少なからず、そう言うオタクの何かを代弁しているのは間違いない。あの漫画の中には僕がいるのか、それとも、僕が描きたかったもの描きたいものを、クジラックスの漫画が僕らの代わりに、描いてくれているという事であろう。
では大手を振って声高に、あれは僕らの漫画というのは、彼らにとって危険な行為ではないだろうか。
「僕らの漫画」ということで、
クジラックスの漫画の中のキャラが特殊だ。と言えなくなってしまうのではないだろうか。

疑問があるのは、何故、クジラックスは、一時期、マンガを描けなくなってしまったのか。
一概には言えないし推測でしかないのは承知だが、
それは、「僕ら」の望む漫画が描けなくなったからではないだろうか。
昔インタビューで、「LOに原稿を送ったのは、原稿がなくて困っていそうだったので、ここなら採用されると思った」という趣旨の発言をしていた。彼は別に、少女性愛者ではなかったのではないだろうか。
それを、漫画家として食べていくために、「僕ら」に合わせて作品を描いたということになるのではないだろうか。
彼の漫画を読み返してみると、こういうのはなんだが、キャラに対する距離感は実にドライで、

「僕ら」の置かれている現状を俯瞰から揶揄している節を感じる。
何か作者とキャラクターに距離というか隔たりを感じるのは私だけだろうか。
「僕ら」が喜ぶように計算されて、「僕ら」のために描かれているのではないか。
当たり前で作者は読者の受けるものを書こうとする。商売上、喜ばれて売れなければならない。
それはあるが、エロ漫画はどうしても作者のフェティシズムが滲み出るものだ。
よく考えるとそれが押さえられていて
作品のセンセーショナルさ、「僕ら」にどういう受け方をするかのほうが先に有る様な気がしてならない。
そう考えると、「僕らの漫画」という言葉にも合点がいく。
クジラックスが描いていた漫画は、クジラックスから見た「僕ら」像。
僕らの漫画というのには間違いはなく。
これはクジラックスから見た、紛れもなく「僕らの漫画」なのではないだろうか。

 

何が言いたいかはまとまらないが、
クジラックスさんには頑張ってほしい。

 

(敬称略)